分かった気にさせたらいけないし、一方で出来ないと落ち込ませてもいけない。

 授業って何のためにやるんだろうか。いまだに意味が分からない。高校大学とまともに大学に通ったことがないからだ。先生がシラバスは予定通り進んでますよと言い訳するための物に思えてならない。

 本来教育というものを考えた時、それがシラバス通りに進む訳が無いのだ。生徒はかならずつまづく。理解できなくなる。そのときに歩みを止めて、分からないところまで戻ることが大切だ。そして、理解し、なおかつその処理ができるようになるまで、辛抱づよく何度も教えるのだ。小出しにしながらとか、思い出させてみたりとか、再現させてみたりとか、あえて答えを隠したりとか、そんなことをしながらね。

 今、教育に必要なのは、授業ではなくて、訓練だ。

 授業というのは、わからなくても進んでいくから、生徒はわかった気になる。分かった気になった生徒は、もともと分からないことを自覚している生徒より厄介だ。なぜなら勉強しようとしないからだ。無知の知という言葉があるが、まさにそれだ。

 分かった気というのが教育では一番大敵だ。だから、徹底的に分からないことを自覚させつつ、でも足下のテストではしっかり点を取らせるという相反したことをやらないといけない。この片方がかけると、能力がないまま砂上の楼閣を築いたり、いつまでたっても出来ない気がして勉強のやる気をなくすことがある。だから、ちゃんと音読や記憶の再現を用いた効率的な学習法を教えて、確実に能力が上がっていく実感をつけさせることは一方で大切だ。


 そもそも、教育はなんのためにあったのだろう。

 社会人としての通貨儀礼とか、まぁ、いろいろな意見がある。カントとかいろんな本も読んだ。だいたい把握しているが、とりあえず私なりの意見。

 そもそも、なぜ落ちこぼれがいるんだろう?

 偏差値教育といわれるそれは、毎年大量の落ちこぼれを生み続けてきた。いやなことばですねおちこぼれ、私もむかしそうでしたけれど。

 で、たかがそんなことのために、絶望して、涙を流して、ああ自分は頭が悪いんだ、偏差値ほにゃららの人間なんだと思って、自分の限界を悟ってみたりする。これって日本経済にとって大きな損失なんじゃなかろうか。能力を継続的に伸ばし続けるためには、さっきもいったけど分からないことを徹底的に自覚しつつ、一方でたしかな成長の実感を得続けることが大事だ。もっといおう。たぶん後者が勘違いでも、その教育効果はあると思う。

 で、音読学習法とか、記憶の再現法をやらせると、中学から不登校だったような生徒でも一ヶ月から二ヶ月ぐらいで、そのへんのサイトあたりの英語だと、ちゃんと緩急つけて、アクセントもばっちしに読むことができるようになる。

 人間の能力にもともと偏差なんてそれほどないんだから、どんな人でも正しい指導をうけて、ある程度の期間努力すれば、しっかりと出来るようになる。お勉強の成績のほうだって上がる。

 なんでこれができないかというと、ようは大人の事情である。塾の経営者は人件費が高くなることを恐れて最高の教育を子供たちに提供できなかったし、地方自治体でそうだっただろう。

 ただ、国際教養大学みたいに、最初ざーと英語をやらせて、それであとは、コスト安い教員にほぼ個別指導お願いしますよっていうのはこれからもっと低年齢層にも広がるでしょ。日本の大学にいる外国人の先生だって思うところがあるだろうし、ボロは着てても心は錦でいたいからね。

 だから、そのときのために、理想の教育システムの体系化をすすめていかなきゃなと思います。